工芸に於ける自力道と他力道
一
禅宗と真宗とは仏界に於ける二大門である。否、人間の凡ての行路はこの
ように二大別される。もとより辿るべき都は一つである。或はこれをものの
表と裏とにも譬え得よう。私は過ぐる日貞信尼の物語を読んで、彼女が自分
を投げ出して彌陀にすがり切るまでに、どんなに血みどろの修行をしたかに
驚かされた。他力往生を願うために、識らずして自力の闘いを経てきたので
ある。だが同じように禅僧の語録などを読めば、悉くが無我無念へと志す魂
ホウゲ
の歴史である。己れを放下し切るその刹那こそは、既に他力の境地とも云え
るであろう。詮ずればこの二大門も一如であって、別物ではない。そう考え
る方が妥当であろう。登る道は東と西とに分かれても、頂きに於いては会え
るのである。
二
だが人々はその性質に準じ、境遇に従い、自他二道の何れかに運命を委ね
る。人はアリストテリアンかプラトニストか、何れかであると詩人コールリッ
ジは云ったが、人は自力の道を歩むか他力の道を執るか、その何れかに決定
される。(何れをも執らない者には歩みが無いとも云える)。いつ見るとも
誰を見るとも、これ等二つの道の何れかを選んで進む。だが選び方の鮮やか
な者、堅固な者のみ、よく都に至ることが出来る。然らざる者は旅の途次に
斃れるのである。
自力道は難行道と呼ばれ、他力道は易行道と云われる。自から舟を漕ぐの
は難行である。帆を風に委ねるのは易行である。一つは闘いぬく道、一つは
便り切る道。
三
自力門は生命の勝負である。負ければ自からが倒れるのである。何事より
も金剛の意志が有用である。力なくしてこの道を進むことは出来ぬ。自から
に立つ者には絶えざる闘いが要る。だが他力門には闘うべき相手はない。何
も委せぎりである。勝つも負けるも存知するところではない。知らないまで
に便ればこそ他力道である。力があるから進めるのではない。力が無いから
こそ運ばれるのである。それは意志の道というよりも、情操の道である。闘
う心より慕う情が、彼を高きに導くのである。
一つは自己の大を信ずる道、一つは自己の小を感ずる道。一つは天才の選
ぶ道、一つは凡人に許される道。強きも力であるが、弱いと悟り切れたら亦
新たな力である。人生の一事、この経緯の糸で編まれていると云えないであ
ろうか。工芸に於いてもそれは同じである。
四
人は広く工芸という、併し自力他力の二大門に工芸も分かれる。そう解し
てこそ個々の性質を明らかにすることが出来る。個人作家の道は云うまでも
なく自力門である。自からの力を頼んで道を切り開くからである。だがこれ
に対し民芸の道は明らかに他力門である。与えられた道に自からを委せるか
らである。一つは作家の道、一つは職人の道。このことへの判断は工芸への
判断を明らかにする。同時にこのことへの曖昧は、作物に対する標準の曖昧
を伴う。
ここに木米の作だという染附の磁器と、支那の染附の民器とがあったとす
る。人はそれを等しく染附として解するが、それは明確に区別さるべきもの
と云ってよい。一つは自力門の作である。木米なる個人を経由してのみあり
得る焼物である。それは意識の作であり、美を眼目として作られた作物であ
る。だが支那の民器は他力門の作である。名なき工人の手から生まれる伝統
的な器物である。一つは在銘、一つは無銘。二者如何に似通うとも、作風を
異にし、意図を異にし、境遇を異にする。
あらゆる工芸の道は、人生の行路のそれの如く、自力他力の二途に分れる。
五
だが工芸に於けるこの二大門の分裂は、二個の段階を経て今日に及ぶ。第
一は貴族的工芸と民衆的工芸との分離である。作物に対する上下高低の区別
である。古くはその差違が少なかったであろう。手法がまだ簡略で精粗の別
がきわ立っていなかったからである。だが時代を重ね作物が精緻な丹念なも
のに移るに及んで、ここに工夫を生じ作為が生まれ、作者の自力が働いてく
る。このことが尚も進んで個人的作と伝統的作との分裂が生じた。かくして
遂に或る作物は個人の名に於いて現れるに至った。ここでは個人の力がその
作を生む主要な基礎である。かくして工芸は純粋な自力門に入る。それは個
人道である。それ等の作物は銘を有つに至った。
だがその反面には依然として他力の工芸が残る。それは主として実用の工
芸である。民衆的工芸である。無銘品である。数多く安く作られる品々であ
る。それが美しいか醜いか、作者はしかく関心を有たない。只役立つように
と製作される。そうして伝わるままに法を受けて作ってゆく。個人ではなく
伝統がその基礎である。それは他力の道であり、易行の道である。工芸はこ
れ等二つの絲で編まれてゆく。
六
だが今の工芸界を見れば、自力門全盛である。個人工芸の前に、職人の他
力工芸はその存在がいたく薄い。作る者は好んで自己の名に於いて作り、見
る者も作者の名に於いて眺める。そうして購う者も在銘のものを尊び、売る
者も銘に向かって高い価をつける。今や銘は美の一標準とさえなって来たの
である。
それが卓越した個人の作である限り、間違いはない。だが自力門は難行道
である。その難行を耐え得た者がどれだけあろうか。禅を説く者は多いが、
禅に達した者は少ない。この世に野狐禅が如何に多いことか。これは自力道
が如何に至難な道であるかを語っている。又そこには如何に多くの危険が宿
るかをも告げている。道を志す者は多く、都に達し得る者は少ない。多くは
途中で踏み迷う。
人々は在銘の作だといたく尊ぶ。だがその標準は危険である。銘があるな
ら寧ろ用心してよい。なぜなら難行の道を終わりまで進み得たものは真に僅
かよりないからである。在銘品の大部分は悪作である。自力門は少数の選ば
れた人々にのみ許される道に過ぎない。
七
自力道は天才道である。誰でも金剛の意志と明鏡の叡智とを有ち得ると期
待することは出来ぬ。天才は一時代に一人か二人、あるかないかである。こ
れは統計が示す残忍な真理である。銘あらば悦び銘なくば省みない如きは迷
誤に過ぎない。真の自力の作はしかく多産ではない筈である。銘は禅非禅を
区別する何等の標準にもならぬ。工芸は銘に於いて最も深く又最も浅い。そ
うして浅きものがそのうち如何に多量を占めるかを了得してよい。銘は直ち
に工芸の美の典拠にはならぬ。
この世には不思議な蒐集家がある。在銘の品を集めることのみに腐心する。
だが私達は安全にこう云ってよい。その蒐集品の九割までは悪作に過ぎない
と。なぜなら真に自力門に活き得た作は、稀有なものだからである。禅が易
行の道でないことは知れ渡った事実ではないか。日本の茶器に佳い品が稀な
のは無理もない。在銘の品が多いからである。
八
なぜ自力の道が難いか。人間の所業には誤謬が多いからである。個人の力
には限界があるからである。自からをたのむ者はとかく自からに溺れ易い。
強きに誇る時、人は大かた脆いではないか。明るさを信ずる人智は、概ね昧
いではないか。愚かだと悟る時より、賢い時はないとも云えよう。
自己に立つ者は自己に破れ易い。名を出すことに惑いが多く、心が曇りが
ちになるのである。理知はとかく造作と結びつき易い。工夫はしばしば作為
である。作為ほど危険な率の多いものはない。在銘の品はとかく天然の資材
を殺している。自からで按排しようとするからである。手法にも無理が多い。
伝わるものを受け容れようとはしないからである。余程の聡明さがなくば、
これ等の難関を打ち越えることは出来ない。難行の自力道に耐え得る者は少
ないのである。
禅は己れの放下を説く。自己に活き、自己を脱せんとするのである。難中
の難である。大かたは自己に滞って斃れるのである。小さい自我は醜い作を
つくる。自力の作で美しいものはいたく少ない。むづかしい道を歩くからで
ある。
九
だが幸いなる哉、工芸には他力の一門が存在する。凡夫にも許された美へ
の一路が準備してある。なぜこの世に美しい数々の品があるのか。難行の道
とは別に、易行の道が与えられているからである。若しも少数の天才にのみ
許される自力道が唯一の道であったなら、美しい作品は暁天の星よりも尚少
ないにちがいない。だが摂理は不思議に働く。天才のみに秀でた作品を贈る
のではない。凡庸とさげすまれる民衆に、驚くべき易行道を与えている。
そこは民衆の世界であり凡庸の領域である。誰も自力で進むことは出来ぬ。
それは位置の弱い工人達の命数である。教養とは縁がうすい。何が美である
か、別にわきまえる所がない。だが彼等は素直である。それ故受け容れる準
備が整う。範に従えばこそ立てるのである。自からを言い張る機縁はない。
謂わば捨身の一生とも云える。だが自からを捨てる時こそ自からが充たされ
る時とも云えよう。彼等は識らずして美しい作をつくる。他力宗門では救い
が誓われている。工人達によき作が産めるのは自からに力があるからではな
い、自からに力が無いからという方が更に正しい。工芸は他力の道に於いて、
美しい作を夥しく得ているのである。なぜならそこは多数の工人達の世界で
ある。そうして多数に作られる器物の世界である。自力道は少数道である。
だが他力道は多数道である。
十
なぜ他力の道が易しいか。なぜそこに美しい作が却って多いのか。作物を
産ましめるものは己れを越えた他の力であって、自からの力ではないからで
ある。自己の作為が器物を左右するのではない。自然がそれを加護して了う
のである。謙譲な者は自然から愛を受ける。作品は素直に育てられてゆくの
である。そこには邪念が入る機縁が少ない。自からの名を売ろうとはしない
からである。そこには誘惑が迫る場合が少ない。平明な道を歩むからである。
そこでは誤謬に陥る機会が少ない。自からで凡てを工夫するのではないから
である。若し誤謬があるならば、寧ろ他力に任せ切らない処から来た失敗で
ある。作者を工人と呼ぶよりも、彼等を助ける自然を工人と呼ぶ方が至当で
ある。
彼等の作るものは用器である。用器は質実である。派手なものが陥り易い
誘惑は彼等に近づかない。自から健全な姿を得る所以である。質素なるがた
めに渋さと結び合う。あの用器であった「井戸」の茶碗が渋いのは必然であ
る。そうして渋いが故に美しいのは当然である。彼等は単純である。そうし
て単純以上に複雑なものはない。民芸で学び得る一つの哲理である。
無銘の品には救われた作が多い。なぜなら易行の道を歩むから、都に着く
ものが多いのである。無銘の品は安全である。たとえその中に粗いもの鈍い
ものがあろうとも、罪深いものは一つだにない。なぜならそれは自からの行
為ではないからである。他力的な作品は罪を贖われた作品とも云える。自か
ら醜い汚れた世界から遠のくのである。それ故私はこう云おう。寧ろ無銘と
いうことの方が、美の一層安全な標準であると。無銘品で悪いものが多くなっ
たのは近代のことに過ぎない。この出来事は、元来は美しかるべきものが、
利慾に飢えた企業家達の犠牲となったからである。
十一
自力他力は工芸の二大門である。只自力の道を徹し得るのは少数の選ばれ
たる者だけである。誰にもこの至難な道が乗り切れるとは保障出来ない。だ
が多数の工人達のために他力門が用意されてある。今日まで彼等はこの易行
道を通して驚くべき無数の作を産み得たのである。
だが不思議である。今は難行の自力道を志すものが甚だ多く、易行の他力
門は日に日にすたれてゆく。伝統への反逆は、個人作家を鼓舞したであろう
が、民衆に向かっては撹乱であった。なぜなら工人達は独創的作家ではない
からである。時代の趨勢は今も他力門の破壊を続けている。最近の用器が著
しく醜くなったのは、工人達に拠るべき基礎がなくなったからである。嘗て
彼等が識らずして美しいものを作ったように、今は識らずして醜いものを作っ
ているのである。罪は工人達にあるのではない。彼等を救う他力門に衰頽が
来たからである。だがこの凋落は、工芸そのものの凋落とも云える。これが
ために大部分の工芸が醜くなるからである。
力ある者は、作家として自力の道に進むであろう。だが力なき者は他力に
依らねばならぬ。さもなくば救いが果たされないからである。今の工芸が最
も要するものは、民衆を相手に話しかける他力僧ではないであろうか。他力
門の新しい樹立こそは、将来の最も大きな仕事である。自力的な現代ではこ
の必要が看却され過ぎている。私達は少数の天才だけに工芸を委ねるわけに
ゆかない。自力門と共に他力門が栄えねば工芸の興隆は来ない。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』12号 昭和6年12月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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